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カタクリ粉の伝統的製法 [粉類]

カタクリ粉(片栗粉)本来はユリ科の多年草カタクリ(片栗)の鱗茎から得られるデンプンのことですが、 現在、流通している片栗粉の多くはジャガイモからつくられたジャガイモデンプンです。



植物のカタクリの言われ、語源も、吉田金彦・語源辞典植物編によれば「臼で搗く(つく)意味の動詞カツ(搗)」からうまれた、根を搗きつぶしたものからとされます。


ではその昔の製造法は?どんなものだったのでしょう?




 


青森県にあった盛岡藩の家老席において書かれた日記体で公的な記録があります。表紙に「雑書」と書いてあるので「雑書」と呼ばれ、1644(寛永21→正保元年)年から1840(天保11)年まで197年間分190冊(14年分が欠本)が現存し、盛岡中央公民館に所蔵されています。徳川家光将軍の晩年から江戸末期までの時代の日記です。



その中で、暑中見舞いとして1739年6月には徳川吉宗父子に盛岡藩名産の「カタクリの粉」を献上した。そうしたら幕府からカタクリ粉の製法、時期、場所、販路などの問い合わせがありました。八代将軍吉宗は、日本国内で様々な特産物をつくりだして経済を建て直しをしていましたから、その一環ですね。
それで、盛岡藩から幕府に回答があり、当時、徳川吉宗の時代の製法が分かります。




 


1、カタクリのこの製法は掘って良く洗い、桶に入れて7日間毎日水を入れ替えて晒し、臼に入れて舂く。
その後、引き臼で挽いてから、笊で濾過し、また水嚢で濾過し、また木綿袋で濾過し、仕上げに絹袋で濾過する。良い水で吟味して使う。


2、干す時は棚を懸けて茣蓙を敷き、その上に良い紙を敷き、そこへカタクリを置いて水を取る。
その後、くだき、陰干しに紙蓋をして干す。
入念に塵芥が入らないようにする。


3、2月末より4月中頃まで製造する。


4、山野に自生していて、畑では作らない。


5、花が散った後に掘って製造する。
花が散らないうちに採掘しては粉が出来ない。
葉のあるうちに掘って溜めて置くのではない。






 


【カタクリ 花の咲く春の森で:太田威(平凡社)】では
朝日村では自分の持ち山でカタクリを摘み取って食用にしている。取ってきたカタクリは茹でて、快晴の日に外のむしろに並べて干して乾燥させる。乾燥したカタクリは冬まで保存し、正月や冬の日に水やぬるま湯で戻して食べる。昔はカタクリの鱗茎を掘り起こして石臼でつぶし、そのデンプンを木綿で超し採って乾燥させ、料理にとろみを与える粉(片栗粉)を作っていた。鱗茎はそのまま煮たり焼いたりして食べても美味しく、若菜も茹でて食べることができる。









 


カタクリは、春植物、スプリング・エフェメラル。春先に花を咲かせ、夏までの間に光合成を行って地下の栄養貯蔵器官や種子に栄養素を蓄え、5月上旬頃には葉(地上部)が枯れ始めます。一般的な枯れ葉になるのではなく、溶けるようになくなります。その後は次の春まで地中の地下茎や球根の姿で過ごします。



 



種から、発芽1年目の個体は細い糸状の葉を、2年目から7 - 8年程度までは卵状楕円形の一枚の葉だけで過ごし、鱗茎が大きくなり、二枚目の葉が出てから花をつける。なお、鱗茎は毎年更新し、なおかつ旧鱗茎の下に鱗茎が作られるため鱗茎は深くなる。原則として鱗茎は分球することはない。


このカタクリの植物学的特徴から、
 芽を出してから8年以上たって、十分に大きくなった球根(鱗茎)を次の春まで生き延びて葉を出し花を咲かせるための栄養分・デンプンを蓄えたものを掘りあげる。


粉を製造する旧暦の2月末より4月中頃は、雪が消えた日光の差す落葉広葉樹林の林床で花を咲かし始める時季です。その時季に、花が咲く前に掘り上げているのですね。他の地域では、5~6月の花が終わり、葉が枯れ消えた後に掘り上げている地域もあったのです。


石川県立自然史資料館の初代館長の本田さんによれば、
「私は学生時代(40年以上前)に金沢近郊の山中でカタクリ畑を見た記憶があります。そこは山土で作った畑で、一面のカタクリ密集地でした。根掘りをちょっと差し込むだけでさくさくと簡単に鱗茎ごと採集できました。採集して悪かったと思いますが、木の根もなければ他の雑草も生えていなかったので、いまでもそれは畑だったとの思いが強いのです。山採りでなく、畑のようにして栽培してあれば、収穫はもっとたやすいはずです。」


今も幕府が製造を命じた大和(奈良県)宇陀の森野薬園には、春先はカタクリの花が一面に咲くそうです。
ただ、明治8年に刊行された日本産物誌(日本地誌略物産弁)には、「山慈姑(やまくわい・カタクリ)、南部の盛岡の名産にして・・大和よりも産すれども、此地の多きに及ばず」とあります。
現在の森野家は、本葛を製造販売しています。






天保 8年(1837年)にオランダ語を訳して「澱粉」という言葉が生まれました。それで明治の初めまで、でんぷんとは言わず葛粉といっていました。1873年に出版された葛粉一覧(丹波修治職、中島仰山画)にクズ(葛)、ワラビ(蕨)、カタクリ(片栗)の3種が紹介されています。この3つが日本における当時の代表的なでん粉でした。

 


盛岡藩は、寛文の初年(1661年)5代将軍・家綱の頃から、毎年夏にカタクリ粉を江戸幕府へ献納していました。江戸で献納品がどのように利用されたかはわかりませんが、
1750年頃には「奥州南部にかたくりとと云(いふ)草あり。その根を採り葛のごとく水飛(すいひ)して、水にてねり餅にして食う。葛より色白く甚(はなはだ)みごとなるものなり。土人専(もっぱら)久痢(きうり)に用ひて益ありと云(いふ)なり。」と記録されています。餅 (堅子(かたこ)餅(もち)という。)にしたか、下痢の薬にしたものと思われます。


その奥州南部、つまり盛岡藩では、カタクリと呼んでいたのです。カタクリの粉⇒カタクリコと呼ばれていたのではないでしょうか?


八代将軍吉宗は、殖産に外来品の薬物に代わる国産ものの開発、栽培奨励政策をとっていました。採薬使(さいやくし)という役職を設けて各地に派遣しています。植村佐平次という方が大和(奈良県)に派遣された採薬使で、植村佐平次を補佐し、御薬草見習いとして出仕し、一緒に捜し歩いた森野通貞が貴重な薬草の苗を下付されて、開いたのが先の大和宇陀の森野薬園です。幕府はカタクリ粉製造の命じていますから、当初は、薬、かぜ、下痢、腹痛の後の滋養薬などとして広まったと思われます。


「煮て餅を作り、及び湯に和して飲む、又此粉を以て、麺条(ウドン)の如く作れるを、山慈姑麺と称す」(日本地誌略物産弁、明治8年)と、食物としての利用も各地に浸透していったと思われます。


天保の大飢饉、1833から39年の最中
1834年(天保5年)千葉県の中里新兵衛という人が、さつまいもを大根おろしで摺りおろして、でん粉を製造したと記録されてます。
1839年(天保10年)に、群馬県の大笹村(現在の嬬恋村大字大笹)で九郎助という方が、いも摺下しの機械を試作してジャガイモでん粉をとり、この地方随一の特産に育っています。でん粉を熊よけの鈴を付けた馬に積んで峠を越え、信州に運んでいました。その様子から馬の鈴のいもで馬鈴薯と言われるようになったそうです。
 九郎助は文化年間(1804年~1817年)に澱粉の製法を発明し、名付けて「芋葛」と名付けたそうですが、擦りおろしが大変で、でん粉の性質が理解されなかったため売れなかったそうです。約30年後に擦りおろし機器を発明し、再び生産を開始したのです。越後地方の産物のカタクリでん粉の名をとり、このバレイショでん粉を『加多久利』と改称しました。


明治 3年(1870年)千葉県で十左衛門という方がカンショ(薩摩芋)澱粉を製造し『片栗粉』の名で呼ばれています。


こうした経過を見ると、自生や半自生のカタクリの、芽が出てから8年以上たってから採取できる根(鱗茎)からとるカタクリ粉は薬用で普及し、やがて食用にもされ、飢饉の中で同じ根でもジャガイモやカンショ(薩摩芋)からとれる粉、でん粉が食料品として台頭してきたのです。「芋葛」という名では受け入れられず、『加多久利』と改称した特産物となるほど売れたというエピソードは、鱗茎からとるカタクリ粉の性状を物語っています。


 カタクリのでん粉、顕微鏡写真


 ジャガイモでん粉、やや大きい


安政年間(1854~1860)に亀田(現在の北海道函館市)の栄治という方が水車を使ってはじめた北海道のジャガイモでん粉製造は、日清戦争が過ぎてから急速に広まり、『製造法ハ普ク人ノ知ル処ナルヲ以テ別ニ記サズ』と林 顕三著、明治20年刊の「北海資料」にも書いてあるほど、農家の自家用として利用されました。「芋米」「薯餅」とかその他多くの調理され、昭和20年代まで重要な食料でした。


明治26-7年 空知、十勝、網走、上川等の各地で水車や馬廻し機を使って馬鈴薯澱粉の商品生産が始まったそうです。(大正6年(1917)刊北海道庁内務部「馬鈴薯澱粉に関する調査」)







 


北海道のでん粉とジャガイモ


カタクリを食す


『諸州採薬記』 (植村政勝諸州採薬記原稿)


カタクリの語源


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