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立春正月と節分の厄払い [有機農業/食物にする生命との付き合い方]

畑の便り  №07-3 2007年1月15日小針店で印刷・配布したものに加筆

 旧暦の太陽太陰暦では、元旦は立春に近い新月(月齢(満ち欠け)は0)の日です。月はお月様の満ち欠けで決まり、年は太陽の運行で決めているからです。日の一番短い冬至、一番長い夏至、昼夜同じの春分、秋分でこれで1年が4分され、そしてこれを2分すると、それぞれの中間点が立春、立夏、立秋、立冬の四立(4大節気)となり、四季の区切りが生まれます。節分は、現在では立春の前日をさしますが、もとはそれぞれの季節がおわる日、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日をいいました。(さらに12ヶ月と組み合わせるため、いまの8等分をそれぞれを3分すると大寒、啓蟄といった24節気が得られる。正月は、正確には立春から約15日後の雨水がある月。)

冬至正月と太陽暦
一年の穢れを祓う豆まき
福も呼びたい

陽暦と冬至正月

  学校の新学期は4月ですが、年の初めを何処に置くかは、ある意味任意です。中国では前漢の時代まで冬至(12/22頃)のある月が正月でした。日本の天照大神が太陽神であるように農耕では太陽・日照が重要ですから、冬至は太陽の死と復活を意味する重要な区切と観念されたからです。ローマ時代のシーザーが定めた暦では春分(3/21頃)で区切っていましたが、当時の古代のローマでは、冬至祭を行い、また冬至から3日後の12月25日に太陽神が復活するという宗教(ミトラ教)が隆盛で、冬至から25日までローマあげての祭りの期間でした。その後キリスト教がミトラ教にとってかわりますが、そのときミトラ教の祭日12/25もキリスト教の祭日=キリスト生誕の日 として受け継がれました。そしてキリストがユダヤ教の割礼を受けた生誕(12/25)から8日目を1月1日にして、年を区切るようになりました。これが、現行の太陽暦の原型です。

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一方中国では、前漢の武帝の時代、立春を境目とする暦が採用されます。太陽が最も衰える冬至の次の季節の節目=立春が、太陽の復活を意味すると観念されたのです。中華文明の栄えた黄河流域では、これを過ぎる頃から雪が雨水となり冬の終りが感じられます。年賀状に「初春のお喜びを申し上げます」と書くのは、この旧暦の正月のなごりです。この中国の暦が日本に伝来し、使われてきました。

1年の穢れを祓う豆まき

 立春の前日の節分は、一年の終りの日になります。こういった区切りの時に、それまでの悪運や穢れを祓うことが古来、日本では行われてきました。正月には宝船の絵を飾る習俗は、民俗学者の折口信夫によれば、本来は大晦日の夜に枕の下に敷いて、過去一年のヨゴレ、穢れを載せて流した厄払いの船だそうです。悪夢を食べる獏が書かれているのも同じ意味で、こうして悪夢、穢れが大掃除されさっぱりして見る夢が初夢。

 節分の豆まきなども同じ、まず豆で身体をなで過去一年のヨゴレ、穢れを豆に付け、ケガレた神である鬼に投げ鬼にケガレを持って帰ってもらうのが本義。穢れがなくなった豆は、一転して清浄な物になりますから、それを食べて取り込むわけです。

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平安時時に中国の道教、陰陽五行による厄払いと迎春の民間習俗の「追儺」(ついな。「鬼儺」おにやらい、とも言う)が伝わり、大晦日に行われていました。方相氏(ほうそうし)というおそろしい形相の面をつけた呪師が祓い役ちなり、矛と盾をもって「鬼やらい」と唱えながら、鬼役を内裏の四門に追い回し退散させる儀式です。朝廷では鎌倉時代まで行われていたそうですが、室町時代に民衆化、全国化していきます。「豆まき」は室町時代に京の都に鞍馬山の鬼が出没して悪事を働き人々が困っていたとき毘沙門天のお告げでいり豆を投げつけて追い払ったという伝説が流布して、広まったと言われています。

 しかしながら、中国の鬼は異界の妖怪ですが、日本では鬼は神様です。各地で鬼を、穢れた荒らぶる神として、地獄で苦しむ祖先霊として家に迎い入れおもてなしをして送り返す風習があります。「福はうち、鬼もうち」とにいうところがあります。吉野の蔵王堂では、赤鬼・青鬼など五つの色をした五匹の鬼がオノなどの道具を持ち、信者の悪い所をさわって邪気をとり直すといわれています。東北地方のナマハゲが家に来て、子どもの頭などをかむと元気になるなど、様々な神様としての鬼が心の中に棲んでいます。

福もよびたい

 さて、正月の宝船は何時の頃からか厄払いの船から、彼方から財宝を積んで舶来する「宝の入船」に転じます。節分では、近頃はやりの、恵方巻がそれに当たります。節分の夜にその年の恵方(吉となる方角→今年は北北西)に向かって、目を閉じて願い事を思い浮かべながら、無言で太巻きをまるかじりと良いことが訪れるのだそうです。起源は、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が、節分の前日に巻きずしの様な物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事だそうです。一時は廃れた関

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西の風習でしたが、1977年に大阪の海苔問屋さんが販売促進に取り上げ、ご存知のように複数のコンビニで売り出して復活した習俗です。宝船に七福神が乗っているように、恵方巻きの具材は何でも良いそうですが、七福神に因んで、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、伊達巻、うなぎ、でんぶ、等の七種類の具を入れるのが良いとされています。昔ならこの時季に無いはずの胡瓜があるのが、いかにも現代的ですね。
 こうしてみてくると、全く合理的でない呪術や儀式ですが、不要なものでしょうか。こうした非合理な「聖」の世界は不要でしょうか。例えば、人を殺してはいけないという禁令は、合理・理屈では裏付けられません。正月から悲惨な殺人事件が伝えられていますが、刑罰の重罰化という合理的な世俗的な措置でどれ位防げるでしょうか?見つからないなら、刑罰よりも大きな利益が得られると判断できるのなら、殺人を犯すほうが合理的です。国家が命じた殺人、戦争では、殺さないと命令違反で罰せられます。殺人の禁止は、理屈だけ言葉だけで説明できない言語道断な禁令であり、非合理な「聖」の世界に根拠を置くしかないのではないでしょうか?

 非合理な「聖」の世界に入り浸っていると、オウム真理教のようなことになりねません。私たちのご先祖が考えたのは、節目のたびごとに多くの神が住まう「聖」の世界と交流し、穢れを祓い、同時に「聖」の世界から来る神や祖霊が運んできてくれる新たな生命の息吹きで魂の再生・更新をはかる儀式、祭をおこなう、聖と俗、非合理と合理の世界を行き来きすることです。

節分は、1000年以上も日本では年の変わり目、節目でした。この節目に、大いに厄払いをしませんか。?

畑の便り  №07-3 2007年1月15日小針店で印刷・配布したものに加筆

 


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