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日本学術会議の役割 ⑵第四条の政府諮問への応答、高レベル放射性廃棄物① [日本学術会議]

第四条の政府諮問への応答

日本学術会議法では、第四条で政府は学術会議に諮問することができるとあり、その諮問への応答・回答を学術会議に義務付けている。虹屋のプログでは、原子力について扱っているので、高レベル放射性廃棄物に関する回答を見てみた。  http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-k159-1.pdf

回答覚書、

経過
高レベル放射性廃棄物の処分に関しては、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」に基づく取組みが行われてきている。その取組みについて、内閣府・原子力委員会委員長から、2010年9月に、日本学術会議に、審議依頼があった。第21期日本学術会議は、2010年9月 16日に課題別委員会「高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会」を設置した。委員会発足から約半年後、4回の検討会議を終えたところで 2011年3月11日、東日本大震災が発生し、これに伴う《東京電力福島第一原子力発電所事故により、わが国では、これまでの原子力政策の問題点の検証とともに、エネルギー政策全体の総合的見直しが迫られる》こととなった。そこで、このような原子力発電所事故の影響およびエネルギー政策の方向性を一定期間見守ることが必要と考え、第21期同委員会は第22期(2011年~2014年)の委員会に審議を引き継いだ。
 第22期 (2011年~2014年)の委員会は、2011年11月16日付けで設置された。委員会は、人文・社会科学と自然科学の分野を包摂する、第21期委員会とほぼ同じ16名の委員構成の下、国民に対する説明や情報提供のあり方や提供する情報、すなわち高レベル放射性廃棄物の地層処分の技術的信頼性についても評価を加え、今後の原子力政策に寄与することを目的とした。
 そして2012平成24年9月11日付で回答を出した。
委員会の視点は、依頼を受けた課題を検討するにあたって、(1) 高レベル放射性廃棄物の処分のあり方に関する合意形成がなぜ困難なのかを分析し、その上で合意形成への道を探る、(2)科学的知見の自律性の保障・尊重と、その限界を自覚する、(3)国際的視点を持つと同時に、日本固有の条件を勘案する、の3つの視点を採用した。

その上で委員会は、高レベル放射性廃棄物の最終処分をめぐって、社会的合意形成が極度に困難な理由として、 (1) エネルギー政策・原子力政策における社会的合意の欠如のまま、高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定への合意形成を求めるという転倒した手続き、(2) 原子力発電による受益追求に随伴する、超長期間にわたる放射性の汚染発生可能性への対処の必要性(3) 受益圏と受苦圏の分離、の3つを挙げる。
委員会は以下の6つを提言する。なお、本提言は、原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取組まないまま高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚している。 

 
6つの提言に続ける

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世界のアカデミーの中の日本学術会議の特徴⑵身分 [日本学術会議]

身分


欧米各国の代表アカデミーは、ほぼ全てが非営利団体・法人などの非政府組織である。非政府組織であるから会員は当然ながら民間人としての参加となっている。
日本の日本学術会議は、
発足時の1948昭和23年は、日本学術会議法、法津第百二十一号(昭二三・七・一〇)により
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00219480710121.htm
第七条で日本学術会議は、一定の資格があり、選挙権及び被選挙権を有する全国の科学者から選挙された「日本学術会議会員(以下「会員」という。)によってこれを組織する。」と公選制による選考で選ばれた会員で構成した。
その資格は、
第十七条 科学者であつて、左の資格の一を有する者は、会員の選挙権及び被選挙権を有する。
一 学校教育法又は旧大学令によ大学卒業後二年以上の者
二 旧専門学校令による専門学校、旧師範教育令による教員養成諸学校又はこれらの学校と同等以上の学校、養成所等を卒業後四年以上の者
三 その他研究歴五年以上の者
2 前項の科学者は、科学又は技術の研究者であつて、研究論文若しくは業績報告又はこれに代るべき所属の学会若しくは研究機関の責任者の証明により、研究者であることが証明される者でなければならない。
第十八条から第二十一条は、選挙のやり方に関する規定、省略
第二十二条、第二十三条は、総会などに関する規定、省略
第二十六条 会員に、会員として不適当な行為があるときは、総会における出席会員三分の二以上の議決によつて退職させることができる。
そして、以下の職務を果たすと規定された。
第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。
第四条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
 ==以下、諮問4項目は割愛
第五条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
==以下、勧告6項目は割愛
つまり、政治権力に左右されない独立の活動によって、政府と社会に対して、学術に基礎づけられた政策提言を行うことを目的とし、そのために第五条で政府に対する勧告権があたえられた。
科学者の選挙による会員の決定は、学術会議の政府からの独立性を保障する重要な柱と考えられた。
また、第七条3項に「会員には、手当を支給することができる。」とあるが、《国立大学教授等の国家公務員以外の会員に対し若干の報酬を支給している》
この間の事情を、久保 亮五氏(発言時は日本学術会議会長)は、1983昭和58年5月12日に第98回国会、参議院・文教委員会で、参考人として発言している。
==
 日本学術会議ができましたのはいまから三十四年前ということでございますが、これは戦後混乱の、混乱と申しますか、日本が敗戦の廃墟の中にあった時期でございます。私は、私自身のことを申しては恐縮でございますが、私自身がまだきわめて若くて、それでも大学に勤めておりましたけれども、よそながら先輩の大先生方がこういうことのために尽瘁しておられるのを拝見していたわけでございます。

 御承知のように日本が敗戦の後のどん底にあったときに、日本を再建するためには学問によらなければならないということが当時日本全体の世論と申しますか、基本的な考え方であったと思います。そういうときに、私どもの先輩の先生方は、ぜひとも日本の学問を再建しなければならないということでこういうものをつくるという運動をされたのでございますが、それ以前のことを申し上げれば、わが国には学術に関して三つの主要な機関がございました。一つは日本学士院でございます。もう一つは学術研究会議という組織、それから学術振興会、こういう三つの組織があったわけでありますが、こういうものを考え直して、そしてそういう学者に負わされた重大な責任を果たしていくためにその支えになるようなものをつくるということでありました。

 このことに関しましては、当時日本はアメリカの占領下にあったわけですが、総司令部におられたケリーという方が非常に尽力をされまして、その方のためにできたということではございませんが、そういうことのあっせんもあえてしてくださったという経緯もございます。

 一番最初は、主に自然科学の関係の方々がこの渉外連絡会というものをつくられましてそういう運動を始められたわけでございますが、それが発展いたしまして学術体制刷新委員会というのができるということになるわけですが、その運動がだんだん成熟してまいりますと、もちろん当時の政府、特に文部省に非常に御助力いただけたわけであります。それで、学術研究体制刷新のために、まずは学術研究体制世話人会というものができまして、それから学術体制刷新委員会というものが組織されたわけでございます。それができましたのは昭和二十二年八月でございますが、学術体制刷新委員会、当時百八人というふうに伺っておりますけれども、各分野、法、文、経、理、工、農、医と、これは現在の学術会議の部と同じことでございますが、それから総合部門、そういうようなところから計百八名の委員の方々が選ばれまして、その方々が大変精力的に御検討になりました。

 それで、翌年の昭和二十三年四月にはその検討結果をまとめて、当時の内閣総理大臣あてに報告をされたわけであります。総理大臣はこの報告を受けられて、日本学術会議法案というものをつくられ、二十三年の六月三十日には国会に提出されて、七日十日に法律として公布されたと、こういう経過でございます。
 それが大まかなことでございますけれども、そのように、そのとき日本の再建のためにこういうものがつくられまして、思い起こしますけれども、私どもはチンピラでございますからそういう組織それ自体には何ら関与することはございませんでしたが、思い返しましても何か明るい空が、青い空が見えたというようなことでございました。
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世界のアカデミーの中の日本学術会議の特徴⑴ [日本学術会議]

歴史

最も古い歴史を持つものはイタリアのリンチェイ国立アカデミー(Academia Nazionale dei Lincei)である。これは、1603 年、王室と学者メンバーにより自主制定された定款によって設立された。
英国王立協会(The Royal Society)1660 年設立。1663 年チャールズ2世により設立勅許が与えられた。
フランス科学アカデミー(French Academy of Sciences)1666 年、ルイ14 世によって設立。
スウェーデン王立科学アカデミー( Royal Swedish Academy of Sciences)1739 年設立
ロシア科学アカデミー(Russian Academy of Sciences)1724 年設立
ドイツ学術アカデミー連合(Union of German Academies of Sciences and Humanities)1893 年設立

米国は、全米アカデミーズで、これは4つの組織からなる。
全米科学アカデミー(National Academy of Sciences:1863 年設立)、
全米工学アカデミー(National Academy of Engineering:1964 年設立)、
医学院(Institute of Medicine:1970 年設立)
実働部隊である全米研究評議会(National Research Council:1916 年設立)から構成される。

アジア諸国のアカデミーは、調査国中では全てが20 世紀に入ってからの設立である。

設置の根拠 欧米、アジアを問わず、諸外国の殆どのアカデミーは、その設置の根拠として、王室勅令、大統領勅令、大臣令、議会令、法令、定款など、勅令・法令に基づく設立の根拠を持つ。これにより、アカデミーは国家学術界の最高の地位に位置付けされる。
ややユニークな例は中国。中国の法体系には各省庁の設立について詳しい規定はない。そのため、国の代表的アカデミーで、中国における科学技術面での最高諮問機関ある中国科学院( Chinese Academy ofSciences:1947 年設立)、中国社会科学院(Chinese Academy of Social Sciences:1977 年設立)は共に政府機関であるにもかかわらず、法律的な設立根拠を持たない。

欧米各国の代表アカデミーは、ほぼ全てが非営利団体・法人などの非政府組織である。全米科学アカデミーが独立民間非営利組織 日本を含めたアジア諸国のアカデミーの大半は政府機関の中に位置付けられている

規模 国内の全科学者数約73 万人に対する会員の割合は3,500 人に1人で、非常に少ない。 米国(220 人に1人の割合)、英国(80 人に1人の割合)、フランス(820 人に1人の割合)、ドイツ(210 人に1人の割合)、イタリア(420 人に1人の割合)、カナダ(50 人に1人の割合)、スウェーデン(100 人に1人の割合)、
欧米諸国と較べれば、日本は外国人会友がいない稀な国

女性比率 日本学術会議は、全会員数210 名中、7名の女性会員で3.8%と少ない
欧米諸国のアカデミーにおける女性会員数の割合は、概ね2~10 数%程度。ノールウェー科学文学アカデミー(Norwegian Academy of Science and Letters)が約20%、
アジア諸国では、韓国、マレイシアのアカデミーは数%程度だが、フィリピン国家研究会議(National Research Council of the Philippines)は約60%、)


日本学術会議、国際協力常置委員会、
各国アカデミー等調査報告書、2003平成15年7月15日付
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/18pdf/1813.pdf
より覚え書き

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日本学術会議の役割 変貌する現代日本社会の中で⑴ [日本学術会議]

第二次大戦中、とくに米国において核兵器やレーダーを初めとする軍事技術の発達に果たした科学者の役割はきわめて大きいものであった。戦争終結後も冷戦体制の下、科学者の動員体制も継続されることになる。
米国においては、直接的な軍事研究だけでなく基礎研究に対しても、研究費の大きな部分が軍事費から支出されて、研究が軍の統制下に置かれるという体制が長く続く 
戦時下の科学者の戦争協力はわが国においてもこれと異なるものではなかった。学術会議の前身である学術研究会議に1945年に置かれていた特別委員会は、熱帯医学、地下資源開発、航空燃料、国民総武装兵器、磁気兵器、電波兵器、現代支那等であり。戦争協力一色であった。戦時下の科学者の戦争協力はわが国においてもこれと異なるものではなかった。学術会議の前身である学術研究会議に1945年に置かれていた特別委員会は、熱帯医学、地下資源開発、航空燃料、国民総武装兵器、磁気兵器、電波兵器、現代支那等であり。戦争協力一色であった。

1941年から45年にかけて全国の各大学には多くの研究所が設置されたが、その多くは超短波研究所(1943年、北大)等の軍事研究に直結する工学系の研究所、もしくは航空医学研究所(1943年、名大)、東亜経済研究所(1942年、東京商大)、南方科学研究所(1945年、東大)等の軍事研究あるいは占領政策に関わるものであった。ここにも大学が組織として戦争協力に突き進んだ状況を見ることができる。

・文部大臣管理下の学術研究会議(1920年成立)、1943年に科学研究動員委員会設置。研究特別委員会「熱帯医学」、「音響 兵器」、「航空燃料」、「国民総武装兵器」、「磁気兵器」、「電波兵器」、「噴射推進機」、「非常事態食料」など
・学界、国防界、産業界が協力一致して学術の振興を図り、国防 の充実と産業発展を期するための日本学術振興会(1932年設立)
・軍事中心・推進研究者は、少数の批判者、抵抗者以外は事実上の総動員体制 
敗戦直後に大学でも文部省の指示による大々的な資料焼却がおこなわれたこともあり、私は資料を見たことがない。戦争末期に国民総武装兵器研究特別委員会は何をしたのだろうか

小沼通二http://scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/pdf23/anzenhosyo-siryo7-2-2.pdf

日本学術会議「学問・思想の自由保障委員会」の1951年のアンケート調査
この委員会は1951年に会員選挙有資格者から単純抽出で選び出した2,000名に研究の自由に関する書面調査をおこなった。
当時は占領下であって科学技術分野の一部では研究制限があり、占領軍への毎月の研究報告が求められ、研究条件は悪く、激しいインフレの中での生活困難が続いていた。「いつが最も自由に研究ができたか」との質問 
質問に、1930年から5年ごとに区切って回答を求めたところ、回答者1,961名中、1930年からと1935年からの5年をあげたものがいちばん多く、43%だったのに対し、戦時中の1940~1944年をあげたものが13%(255名)いた。
情報操作・隠ぺいや思想統制があり、研究者の逮捕もあった中で、軍事研究との関係が想像できる。年齢、専門部門、所属機関が記入されていたのだが、今その記録は残されていない。 日本学術会議第11回総会資料、1951年10月「学問・思想の自由保障委員会」報告

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