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世界のアカデミーの中の日本学術会議の特徴⑵身分 [日本学術会議]

身分


欧米各国の代表アカデミーは、ほぼ全てが非営利団体・法人などの非政府組織である。非政府組織であるから会員は当然ながら民間人としての参加となっている。
日本の日本学術会議は、
発足時の1948昭和23年は、日本学術会議法、法津第百二十一号(昭二三・七・一〇)により
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00219480710121.htm
第七条で日本学術会議は、一定の資格があり、選挙権及び被選挙権を有する全国の科学者から選挙された「日本学術会議会員(以下「会員」という。)によってこれを組織する。」と公選制による選考で選ばれた会員で構成した。
その資格は、
第十七条 科学者であつて、左の資格の一を有する者は、会員の選挙権及び被選挙権を有する。
一 学校教育法又は旧大学令によ大学卒業後二年以上の者
二 旧専門学校令による専門学校、旧師範教育令による教員養成諸学校又はこれらの学校と同等以上の学校、養成所等を卒業後四年以上の者
三 その他研究歴五年以上の者
2 前項の科学者は、科学又は技術の研究者であつて、研究論文若しくは業績報告又はこれに代るべき所属の学会若しくは研究機関の責任者の証明により、研究者であることが証明される者でなければならない。
第十八条から第二十一条は、選挙のやり方に関する規定、省略
第二十二条、第二十三条は、総会などに関する規定、省略
第二十六条 会員に、会員として不適当な行為があるときは、総会における出席会員三分の二以上の議決によつて退職させることができる。
そして、以下の職務を果たすと規定された。
第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。
第四条 政府は、左の事項について、日本学術会議に諮問することができる。
 ==以下、諮問4項目は割愛
第五条 日本学術会議は、左の事項について、政府に勧告することができる。
==以下、勧告6項目は割愛
つまり、政治権力に左右されない独立の活動によって、政府と社会に対して、学術に基礎づけられた政策提言を行うことを目的とし、そのために第五条で政府に対する勧告権があたえられた。
科学者の選挙による会員の決定は、学術会議の政府からの独立性を保障する重要な柱と考えられた。
また、第七条3項に「会員には、手当を支給することができる。」とあるが、《国立大学教授等の国家公務員以外の会員に対し若干の報酬を支給している》
この間の事情を、久保 亮五氏(発言時は日本学術会議会長)は、1983昭和58年5月12日に第98回国会、参議院・文教委員会で、参考人として発言している。
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 日本学術会議ができましたのはいまから三十四年前ということでございますが、これは戦後混乱の、混乱と申しますか、日本が敗戦の廃墟の中にあった時期でございます。私は、私自身のことを申しては恐縮でございますが、私自身がまだきわめて若くて、それでも大学に勤めておりましたけれども、よそながら先輩の大先生方がこういうことのために尽瘁しておられるのを拝見していたわけでございます。

 御承知のように日本が敗戦の後のどん底にあったときに、日本を再建するためには学問によらなければならないということが当時日本全体の世論と申しますか、基本的な考え方であったと思います。そういうときに、私どもの先輩の先生方は、ぜひとも日本の学問を再建しなければならないということでこういうものをつくるという運動をされたのでございますが、それ以前のことを申し上げれば、わが国には学術に関して三つの主要な機関がございました。一つは日本学士院でございます。もう一つは学術研究会議という組織、それから学術振興会、こういう三つの組織があったわけでありますが、こういうものを考え直して、そしてそういう学者に負わされた重大な責任を果たしていくためにその支えになるようなものをつくるということでありました。

 このことに関しましては、当時日本はアメリカの占領下にあったわけですが、総司令部におられたケリーという方が非常に尽力をされまして、その方のためにできたということではございませんが、そういうことのあっせんもあえてしてくださったという経緯もございます。

 一番最初は、主に自然科学の関係の方々がこの渉外連絡会というものをつくられましてそういう運動を始められたわけでございますが、それが発展いたしまして学術体制刷新委員会というのができるということになるわけですが、その運動がだんだん成熟してまいりますと、もちろん当時の政府、特に文部省に非常に御助力いただけたわけであります。それで、学術研究体制刷新のために、まずは学術研究体制世話人会というものができまして、それから学術体制刷新委員会というものが組織されたわけでございます。それができましたのは昭和二十二年八月でございますが、学術体制刷新委員会、当時百八人というふうに伺っておりますけれども、各分野、法、文、経、理、工、農、医と、これは現在の学術会議の部と同じことでございますが、それから総合部門、そういうようなところから計百八名の委員の方々が選ばれまして、その方々が大変精力的に御検討になりました。

 それで、翌年の昭和二十三年四月にはその検討結果をまとめて、当時の内閣総理大臣あてに報告をされたわけであります。総理大臣はこの報告を受けられて、日本学術会議法案というものをつくられ、二十三年の六月三十日には国会に提出されて、七日十日に法律として公布されたと、こういう経過でございます。
 それが大まかなことでございますけれども、そのように、そのとき日本の再建のためにこういうものがつくられまして、思い起こしますけれども、私どもはチンピラでございますからそういう組織それ自体には何ら関与することはございませんでしたが、思い返しましても何か明るい空が、青い空が見えたというようなことでございました。
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