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搾油の工程(5) 大豆の圧搾 [油脂ー搾油、栄養、コレステロール]

中国の古い書物に、紀元前7世紀の初めころ、斉の国の桓公が満州南部と見られる地方を制圧して、ここに住んでいた朝鮮の古代民族である貊族(こまぞく)が栽培していた大豆を持ち帰り戎菽(チュウシュク)と名づけたとの記録があることから大豆は満州で古くから栽培されていました。

大豆などマメ科植物に窒素固定の根瘤菌が共生していて、根には根瘤をつくり空気中の窒素ガスを取り込んでマメ科植物に供給するという性質があります。マメ科植物は窒素肥料不要。根瘤菌は相手になるマメ科植物の範囲が限定され、親和関係からアルファルファ菌、クローバー菌、エンドウ菌、インゲン菌、ルーピン菌、ダイズ菌、カウピー菌、レンゲ菌の8群に部類されます。ダイズ菌は欧州や米大陸には居ないので栽培できず、ダイズ栽培は中国、朝鮮、日本などに限られていました。

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大豆の先祖・ツルマメ

満州(今の中国東北部)では人力或は畜力で搾られた大豆油が食用油として広く普及していました。1775年(清朝第6代の皇帝・乾隆40年)頃から、搾油の残り粕―豆粕・豆餅は上海周辺の農家で金肥(購入する肥料)として用られて以来、盛んに中国国内での交易されました。マメ科植物を栽培し、鋤き込む緑肥だけでなく、豆粕・豆餅を発酵し堆肥化して、窒素源にしたのです。

この当時は、主産品が食用油の大豆油であり、搾り粕(豆粕・豆餅)がその副産品。搾り粕は、華中の綿花、華南のサトウキビ栽培などの肥料や「牲口(牛馬など家畜)ヲ飼養スルニ豆餅ヲ用ユ」(満州地誌)でした。

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この満州地方は歴史的には女真族(後に満州族と改称)の住む森林地域でした。漢民族と女真族は攻防を繰り返し、日本の江戸時代には漢民族の明王朝を滅ぼして清王朝を打ち建ています。清王朝では、先祖の地である満州には、女真族の生活をささえる狩猟の場であり山貨(朝鮮人参など)を採取する森林を保護し、森林開発・耕地化を禁止・抑制する政策をとっていました。1840年以前の満州は、アムール虎が徘徊する大森林・原生林に大半が覆われていました。

アヘン戦争(1840-1842年)後、中国内地から満州への移住者が激増し、南部の鴨緑江(おうりょくこう、現在の中国と朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮との国境)流域に点々と村落が出現します。

そこの暮らしは、自給自足が中心でしたが大豆は重要な換金作物であり、食料でした。朝鮮半島には野菜の葉に穀物や肉を挟んで食べるサムという食べ方がありますが、この地方では大豆の葉にも粟などを包んで食べていたようです。特に厳しい寒さが襲ってくる冬の季節では野菜が欠乏してきますが、大豆に水と温度を与えて発芽させ、大豆もやしを作って野菜としてのビタミンの補給源としました。

 余談ですが、日露戦争の旅順要塞包囲・籠城戦(1904明治37年8月19日〜1905明治38年1月1日)では、ロシア軍は大量の大豆を持っていましたが、大豆もやしを作ってビタミンの補給源とすることをせず、約5万6千人の将兵のうち8千人のビタミンC欠乏による壊血病患者、1千人のビタミンA欠乏による夜盲症患者が発生しています。これによる戦意喪失が旅順降伏の一因として挙げられています。日本陸軍は、白米飯(精白米6合)でありビタミンB1欠乏による脚気や病死者がでています。ロシア軍は壊血病にならない現地の中国人の食生活に、日本陸軍は脚気病死者を出していない麦食を取り入れた海軍や台湾の陸軍に学べば防げたのです。

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アムールタイガー

それぞれの農家で収穫された大豆は、冬に大型の馬車で運ばれ糧桟と呼ばれる県の中心地(県城・駅)に所在する穀物問屋が買い集めて、大都市各地にある油房と呼ばれる圧搾工場で、大豆を石臼で挽き粉砕し、楔を打ち込むやり方で加工されて油と粕になっていました。それらは遼河の水運で遼東半島のつけ根、渤海遼東湾の北岸の河口部の牛荘(営口)に集積されます。

1856~60年のアロー号戦争(第二次アヘン戦争)の結果、営口は1860年に開港し1866年頃から集積する大豆が当地で搾られています。当時の貿易統計では、大豆、豆油、豆粕の大豆3品が営口輸出の80%前後を占めています。1880年代には清国は、領土確保のため満州への移民奨励に政策を転換し、アムール虎が徘徊する大森林・原生林は伐採・開墾され大豆などの生産が増加しています。大豆3品の移出量は、1872-1881の年平均量は276 千トン、1892-1901の年平均量は693 千トン

日清戦争(1894年明治27年)前、「本邦(日本)牛荘(今の中国遼寧省、営口)間ノ貿易ニ於大豆及豆餅ハ殆ンド其総額ノ八割ヲ占メ昨廿六年中日本ヘ輸出シタルモノ実ニ百七十万両ノ巨額ニ達セリ」この大豆粕は肥料として使われました。明治20年代当時の日本では、おもに鰊搾粕が肥料として農家で使われていました。その鰊搾粕が高騰した時に、満州の廉価な搾り粕(豆粕・豆餅)を輸入し代用肥料としたのです。その輸入を契機に、大豆粕の肥料としての優秀さと廉価さが認められ、輸入が増大します。

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鰊搾粕

「我邦農業ノ進歩ニ伴ヒ魚肥料ノ需要次第ニ増加シ従テ年々其価額ノ騰貴ヲ来シ肥料商ハ此需要ノ増加ニ拘ラズ情実上並商略上取引ノ困難ヲ感ズル至レリ
於是乎兵庫ノ肥料商有馬市太郎氏等主トシテ此廉価ナル代用肥料(大豆粕―原引用者)ヲ輸入シテ魚粕ノ価格ヲ下落セシメン事ヲ図レリ幸ニシテ其効験著シク試用農家ノ好評ヲ博シ紀淡濃尾ノ諸地方ヲ始メトシテ漸次其販路ヲ拡張シタ」

農商務省農業実験場の栽培実験では、稲では約10%増収、麦では約3.7%増収、桑、茶などにも効果が認められています。価格は鰊搾粕の約半分でした。

日本での満州大豆の圧搾は、1901年明治34年に福井県敦賀港の大和田製油所が最初とされています。明治38年には井上寅次郎が兵庫に開設し、その後次々と大豆粕製造・搾油会社が出てきます。日本では、大豆粕が主産品で、大豆油は副産物でした。技術的には圧搾法です。

満州では大豆を搾って、大豆油の収量10%、豆粕の収量約86%です。豆粕中の蛋白質含有量40%、豆粕中残留油分8%です。日本国内で製造された粕のデータは見つけられませんでしたが、ほぼ同等とみられます。油分が8%、水分が27%前後と高いため、欧州など長距離・長期間の輸送では変質が起こりやすい大豆粕です。

日清戦争の結果、日本は幕末に日本が欧米から押付けられた不平等条約と同様の交易条件で清国と講和条約(下関条約・馬関条約)を1995明治29年に結びます。これを足場に、明治25年に営口に進出していた三井物産は、豆粕事業を一層拡大します。他に村松、福富、海仁、加藤といった洋行(商社)の開設が記録されています。当時の営口交易では、移出の63%は中国の他の地域への大豆3品などの移出、移入では、中国の他の地域からの移入が82%(中国産品約40%、外国産品の二次移入が約40%)を占めています。三井物産なども日本への輸出だけではなく、こうした対中国交易にも携わった。

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加藤洋行・営口

また、日清戦争後の遼東半島の日本割譲を阻止した三国干渉(1895年)の見返りとして、ロシアは満洲北部の鉄道敷設権を得てます。ロシアは1891年からシベリア鉄道の建設を始め、当時残るはアムール線(スレチェンスク〜ハバロフスク)およびバイカル湖周辺のみになっていました。二つとも地勢が大変険しく建設が困難でしたが、満洲北部にアムール線に代る短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得しました。1898年3月、旅順大連租借条約でハルビンから大連、旅順に至る南満洲支線の敷設権も獲得しました。

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この東清鉄道建設に使う資材は営口から輸入され、建設労働者に多くの中国人が満州に移入してきます。この鉄道建設は大興安嶺トンネル完成で1904年に終えます。枕木や初期には蒸気機関車の燃料として大量の薪を使用した東清鉄道の建設によって森林は広く伐採され、その切り株だらけの地を鉄道の建設労働がなくなった中国人が開墾して農地に変えて行きます。赤い夕陽が地平線に沈む満州の風景が形作られました。

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そして日露戦争(1904明治37年2月8日 - 1905明治38年9月5日)にいたります。

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