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人間の「自己家畜化」の深化と食 [有機農業/食物にする生命との付き合い方]

  №07-50 2007年12月小針店で印刷・配布した「畑の便り」の再録

 「家畜」は、人間によって、野生から切り離され、形や習性を変えられた動物。そうだとすると、自ら作った社会制度や文化的環境によって飼い慣らされ、それに適応して自らを変えてきた人類も、「家畜の一種」と見なされる。そういう発想で我々の人類の社会や生活の姿を考察する人類学のやり方が「自己家畜化」。人類は自らつくる環境によって身体的にも特異な進化を遂げ、あたかも家畜のごとく自己を管理する動物であり、家畜に見られる特徴があるとの認識です。

 人間はもともと群居して家族、部族などの集団をつくって暮らしてきました。食料の調達、分配、配偶者の獲得、天敵や干ばつなどに戦ってきました。そして、人口が増えるほど町や都市を作り群居する動物です。それは、家畜の暮らしと似ていますから、家畜に見られる性質が人間にあってもおかしくはありません。

 その証拠として、人間の身体の形態に、ちょうど家畜と同じような独特の変化が起きている、たとえば野生のイノシシとブタとを比べると、明らかにブタはイノシシよりも顔面部が小さくなっています。人類と猿では人類の方が顔面部が小さくなっています。巻き毛・縮れ毛、椎骨数や四肢骨の変化、皮膚の色素の増減など、人間と家畜だけにかぎって顕著に見られる形態変化がおきています。人間社会にも、何か家畜と同じ現象が起きているのではないかというわけです。
 食での家畜化は、自分で餌を探してこなくても、飼い主である人間から毎日餌を与えられる。自分で餌を探す能力も使わなくていいという特徴があります。

家畜.JPG

野生と家畜化の特徴

①、家畜は多かれ少なかれ、人間が管理している空間のなかに囲い込まれて、生活をする。

②、家畜は、自分で餌を探してこなくても、飼い主である人間から毎日餌を与えられる。自分で餌を探す能力も使わなくていい。

③自然の脅威から遠ざかる。たとえば、天敵の襲来や、干ばつや、気候の変動などから守られる。家畜が死んでしまったら人間にとっても大損害だから、人間は家畜をできるかぎり守ろうとする。 

④、家畜は人間によって品種改良(人為淘汰)させられていく。より役に立つような家畜へとたえず改良されるのが、家畜の宿命である。

⑤家畜は人間によって繁殖を管理される。人間は家畜を品種改良するときに、優秀なオスとメスをかけあわせて子どもを作る。そうやって、子供をたくさん産むブタを作り出したり、乳がたくさん出るウシを作り出したりする。このような生殖の管理こそが、家畜化の本質であるとも言える。

⑥、家畜にされると、その動物は身体の形が変わる。たとえば、イノシシを家畜化したものがブタなのだが、ブタは家畜になって身体の形が変わった。くちさきが短くなり、身体から毛が抜けて脂肪が付いた。牙は退化した。イヌもオオカミに比べて変化している。性周期も変化する。 

⑦、家畜は死のコントロールを受ける。つまり、人間は家畜が予定外のときに死なないように全力でコントロールし、死ぬべきときが来たら強制的に殺す。 

⑧、家畜と人間のあいだには独特の共犯関係が成立する場合がある。人間が家畜を餌付けするときのことを考えてみれば分かるように、家畜は餌をもらうことと引き替えに、労働をしたり、従順になったり、逃げ出さなかったり、芸をしたりすることを覚える。家畜は、自発的服従の状態にみずから身を置くことがある。いったんそうなってしまえば、そこから抜け出すのはとても難しいだろう。

無痛文明論 森岡正博著 より

現代の特徴 家畜化の深化

 食での家畜化は、自分で餌を探してこなくても、飼い主である人間から毎日餌を与えられる。自分で餌を探す能力も使わなくていいという特徴があります。
  しかし以前は農家の庭先を自由に駆け回って餌を啄ばんでいた鶏は、今やベルトコンベアにのって流れてくる餌をただ食べ続けるだけ。ケージに閉じこめられて、運動することもできない「家畜工場」で卵を産んでいます。
  そして人間は家、道路、上下水道、自動車、電気、そういうものに囲まれて人工環境下で生活しています。自分の部屋から電車に乗って出勤して、空調のきいたオフィスで仕事をしている姿は、家畜工場のニワトリとどこか似ています。 次に、食料ですが都市の住人は、材料や製品をスーパーマーケットなどで買っている。そうして短時間で調理して食べる。お金があるかぎり、ほぼニワトリ並みの自動供給に近い。

この状況を針山孝彦さん(浜松医科大学、生物学教授)は次にように書かれています。

 『ケニアの田舎を旅しているとき、食料を購入するため小さな町に立ち寄りました。道の両脇50メートルくらいに渡ってポツポツと各種の商店が立ち並んでいました。その商店街のはずれに近いところに肉屋がありました。天井につけられた鉄のフックには、たぶん近所で屠殺されたであろう牛がつり下がり、ハエがたかり、異臭を放っています。店頭でも自宅でも冷蔵庫があるのが当たり前の生活に慣れてしまっている私は、田舎の肉屋の中央にあった皮だけが剥がされて血がたれている肉の塊の姿と、その臭いにはちょっと驚きました。とにかく肉を切り身にしてもらって、自分で調理しました。いつも持ち歩いている醤油で味付けしたステーキです。お腹がすいていたものの、あの異臭が思い出されてなかなか食が進みません。自分が家畜化されてしまっていること痛感しました。

  日本で生活しているときの私は、食料とするために動物を殺しているのにその現場は見ません。肉を切身にするときに流れ出る血液や内臓からほとばしる湯気も見ない。スチロールのトレイに入れられ、ラップにくるまれて商品用の冷蔵庫に飾られている肉からは、調理を始めるまではほとんど臭いはない。調理をするときには胡椒などのシーズニングを加えることで臭いは一層なくなる・・・という「ないないづくし」なのです。

  そして何よりも家畜化されているなと思うのは、火を通した物が食事の中心であるため、素材そのものの味からはずいぶん違った物を食べていることです。自分が、ヒトが従属栄養生物で、食物連鎖の中で動物や植物を食いまくっていることに思いをいたらせるのは難しいことなのだなあと、肉の異臭を思い出しながら考えました。・・それでも、やはりお腹が空いていたので、抵抗感の残るその肉を、全て食べました。冷えてしまって少し筋張っていましたが、いつもと同じ、美味しい肉であることには変わりがありませんでした。』(生き物たちの情報戦略 化学同人刊行)

  火を使って調理するという点は今も昔も変わりがありません。昔の肉屋では、豚の背骨つきの半身がぶら下がっていて、職人技を駆使して塊肉を取っている、その塊肉を切り身に切り分けている光景が見られました。それが今はスチロールのトレイに入れられ、ラップにくるまれているという「ないないづくし」なのです。それは、電気を使った冷蔵庫の普及がもたらした近年になって現れた状況です。  
 
自己家畜化の深化と人間性の衰退

 と畜直後は、死後硬直で食用にはできません。しばらく置いておきます。硬直が解け、酵素で熟成し美味しさが出てきます。ケニアの田舎では、その間にハエがたかることになるわけです。ですから、どの部位が食べ頃か、腐っているところはどこか五感で見分ける力、自分で餌を探す能力が必要とされますが、今の「ないないづくし」の肉ではどうでしょうか。期限表示に頼るのではないでしょうか?
 
  需要を満たすため、これまで食用にしていなかった部位を使い、もっと加工度の高い食品も作られています。そういった加工食品では、食品添加物など五感では感知できない物がふえ、表示に頼らざるを得なくなります。
 
  今年は、様々な食品偽装が話題になりましたが、その背景には「自己家畜化」の深化、それによる食品表示への依存の増大があると思います。「自己家畜化」の深化は、自分で餌を探す能力の必要性の低下でもあります。それは、動物の根源的な餌を探し摂取する情動の衰えに反映され、生きる意欲の低下、生きていると言う感覚の低下になるのではないでしょうか。

  また、ライオンがシマウマを食べるときに、私はシマウマの命を頂いて生きていると感じるでしょうか?そういう感覚、人は「食物連鎖の中で動物や植物を食いまくっている」、他の命を頂いて生きてる存在であると言う認識を持てるのは人間だけであり、それによる罪悪感や他の生物への感謝の念といった感情は人間特有の性質、人間性の一部です。その人間性が「自己家畜化」の深化で壊れていくのではないでしょうか。ラップされたお肉から生きている豚・牛に想いが及ぶでしょうか?

  温暖化など様々な環境問題は、まずほかの生き物での被害で姿を現します。先ほどの他の生物への感覚が共有されている社会では、速やかな対応が行われ、被害が人間にまで及ばないと期待できますが、「自己家畜化」の深化で壊れている社会ではどうでしょうか。
 「自己家畜化」の深化は、他人への目線にも大きな影響を与えてると思います。それは別の機会に。
 

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